日頃からコミニケーションは大事だと言っている。相手を理解してお互いが上手くいくように会話をしたり、相手を気遣うことで信頼感も出てきて、活発な行動を引き起こすことで物事が好転していくためのやり方、みたいな感じだろうか。

しかし、何処まで踏み込んで良いのか、発する言葉はどの程度の言葉なら相手を気遣っているように聞こえるのか、はたまた本人が持っている、きわどい特性を何処まで隠して、上辺だけの世間的なモラルに乗っ取った綺麗ごとで、どのくらいお互いが繋がっているのか。そのさじ加減が難しいことも現実にはあると思う。

島根には「砂の器」のロケ地になった場所がある。松本清張が手掛けた長編推理小説で後にも映画化された。大人になって初めてこの映画を観た時には、何とも言えない心寂しい雰囲気と演出で、後味が悪い映画だと思った。若い時にはSFやアクションものが好きだったので、大して気にもしなかった、と言うのが正しいだろう。

17年前に当時SMAPだった中居正広が主演したTV番組を観て、「こんなんだっけ?」と初めて映画を観た時の強烈なインパクトが全く無かった気がした。オブラートに包まれていた感じだ。全ての表現と言葉に。

先日新聞に砂の器の記事が投稿されていたので、久しぶりに観ることにした。当時の記憶が蘇るくらいインパクトがあった。制作段階でも世間に与える影響はとても大きかったと思う。この映画を世に出すまでには様々な苦悩があり、映画監督も一世一代の勝負に出たような印象を受ける。

現実の言葉や風景は人の心に刺さるものだ。刺さるためには、多少世間から好ましくない言い方や表現をしないと意味を成さないことがある。何となく腫れ物に触るように語り掛けても、コミニケーションが通じ合うとは思えない、というのが私の考え方だ。

今時は言葉や表現の発し方が難しい。「昔は良かった」と思ってはいないが、話す方も聞く方も懐が広かった気がする。私が世間知らずで物事を余り知らなかったことが原因かもしれないが、思ったことや見たものをそのままぶつけて、相手の考え方や言い返しの言葉で、更にぶつけた言葉を言っていたものだ。

言い争いまではいかないし、お互いが納得する平和的解決もしない時が殆どだ。時として世間的には良くない言葉も言ったり聞いたりして、余計にヒートアップして更に上をいくことになる。そのうち言葉も尽きて面倒くさくなってくる。いつの間にか、押し問答が始まる前の時間にタイムスリップして、またいつもの関係に戻る。仲が良いとか悪いとかじゃなくて、私の昔はそんなもんだった。

「砂の器」はそんな映画だと思う。本当のことかもしれないし、フィクションかもしれない。でも現実にはそう言う風に世間では思われていたのだと思う。”そんな時代”、それが答えだと思う。

現実をちゃんと見て、答えを出したり、出さなかったり。自分なりの意見を持っていて、自分なりの言葉を表現できた。人は耳を貸して、自分に興味が無ければ、鯨の食事のようにフィルターで必要なものを食べて、欲しくないものは外に捨ててしまう。捨てたものに、いちいち他の鯨は文句を言ったり、気にも留めたりしない。そう言うもんだからだ。

明日から新しい年度が始まる。法令も変わるしやり方も変わる。新しい出会いも増えるし、新たなぶつかり合いも生まれる。コミニケーションはきっと大事になるだろう。でも、言葉をどうように使いこなせば良いのか?苦闘だけは続く。新たな年度に繰り越しとなった気がする。

2020年の年度末。頑張って参りましょう!